2007年7月 1日 (日)

7月1日再会の約束の日「めぐり逢い」(57年米)

ヨーロッパからニューヨークへ向かう豪華客船の中で出会ったニッキー(ケーリー・グラント)とテリー(デボラ・カー)。寄港地ナポリのニッキーの叔母の家を訪れるなど、楽しい時を過ごすした。恋に落ちた二人だが、お互いニューヨークに待つ人のある身であったため、半年後に会う約束を交わして別れた。「7月1日午後5時、エンパイアビルの展望台。天国に一番近い所、102階で」

この恋の前に立ちはだかるはずのテリーの恋人は、彼女が正直に打ち明けると「何かあったら連絡してくれ」とテリーの幸せを願うような、ものすごーくできた人物なのだった。で、約束の場所に向かった7月1日、《何か》が起こってしまう・・・。障害がなくなっても簡単には幸せになれない、アクシデンタルなすれ違い。メロドラマの王道です。美男美女の運命的な出会い、シャレた会話、ハラハラ見守る恋の行方、ハリウッドのラヴ・ロマンス黄金期の代表作だと思います。

ところで、テリーの恋人のように、愛する女性に対して寛大すぎるほどの男性がアメリカ映画に頻繁に出てきますが、努力?の割にいたく損な役回りですよね。一方、ロマンスの主役が自然すぎて、演技のうまさが伝わらない感のあるケーリー・グラント。俳優としては損だったのかも。

| | コメント (13) | トラックバック (0)

2007年6月27日 (水)

1880年6月27日ヘレン・ケラー誕生「奇跡の人」(62年米)

1880年6月27日、アラバマ州タスカンビアで誕生したヘレン・ケラーは生後19カ月の時、原因不明の高熱に侵され視覚と聴覚を失ってしまう。閉ざされた世界で7歳になったヘレン(パティ・デューク)のもとに21歳の家庭教師のアニー・サリバン(アン・バンクロフト)がやって来た。

先ずアニーは指文字でアルファベットを教え、ものには名前があることを理解させようとした。行儀の躾けにおいてはヘレン対アニーの格闘さながらの状態が続く。両親のヘレンに対する憐憫ゆえの過保護が成長を妨げると、アニーはヘレンと離れの小屋で暮らすことを願い出て、2週間の約束で許可された。

ヘレンは世界の全てを知りたがっていると見抜き、信じ、彼女の魂を掘り起こそうと不撓不屈の精神でヘレンと向き合い、それによりヘレンの奇跡を呼び起こしたサリバン先生。劣悪な環境で育った自己の体験からヘレンの心に寄り添うことができるサリバン先生。くじけそうになると過去の情景がオーバーラップされ、あきらめないことで同時に自分自身も救われていく感じが伝わる映像になっていて、観客の方も救われる感じがするのです。

三重苦を乗り越え、社会福祉に貢献した偉人ヘレン・ケラーと、彼女の暗黒の世界に光を差し込むという奇跡の働きをしたアニー・サリバンの二人の女性に、今宵、乾杯を。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2007年6月19日 (火)

6月19日ベアーズ、決勝戦に臨む「がんばれ!ベアーズ」(76年米)

少年野球チームのベアーズは市会議員のボブが自分の息子のために作ったチームで、どの子も野球がまともにできないばかりか、個性が強く協調性も全くない。そんなチームの監督を依頼された元マイナーリーグのピッチャーだったモリス(ウォルター・マッソー)だが、昼間から飲酒をしているような人物で「素面でも役立たず」などと言われている。リーグ戦も大負けが続き、士気は完全に衰えチーム解散の危機に。ここで発奮したモリスが「一度あきらめたら癖になる。続けろ」と少年たちを鼓舞し、野球の基礎を教え、チームワークを学ばせる。そして、12才の天才少女アマンダ(テータム・オニール)をピッチャーにスカウトし、さらに、運動神経抜群だが不良少年と呼ばれているケリー(ジャッキー・ヘーリー)を入れるなどして、ベアーズは急成長。野球の技術力というよりも、それ以上にそれぞれが人間的に成長していく。あくまでも個性を失わずに、というところがGOOD.

ベアーズはついに、6月19日(アメリカの学校はこの時期、学年末)のリーグの上位2チームで戦う優勝決定戦に進出することに。この決勝戦で両チームの監督は勝つことのみに汲々としてしまうが、そんな大人に対して子供たちはキッパリと抗議。彼らは勝敗よりも大切なものを感じ取り、それを守ろうとするほどに成長していたんですねえ。この最後の試合は<みんな違ってみんないい>を打ち出しているように感じます。

ビゼー作曲の♪カルメン序曲 まるでこの映画のオリジナル曲のようにピッタリです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月13日 (水)

1886年6月13日ルートヴィヒ逝く「ルートヴィヒ 神々の黄昏」(72年伊・西独・仏)

1864年、18歳でバイエルン国王に即位したルートヴィヒ2世。国を治める仕事より芸術が大好き。王になって早速「リヒャルト・ワーグナーを捜せ」と命令した。「国に芸術を広めることで国民の役に立ちたい」と本気で思っている、容姿端麗な若き王ルートヴィヒ(ヘルムート・バーガー)はゲルマン伝説をオペラにしたワーグナー(トレバー・ハワード)に心酔し、強力にバックアップした。また、ルートヴィヒは従姉にあたるオーストリア皇后のエリザベート(ロミー・シュナイダー)を生涯、慕い続けた。

1866年のプロシア・オーストリア戦争への参戦に際しても、1871年にはドイツ帝国の誕生でバイエルンは併合され、名ばかりの王になってしまっても、とにかく争そいごとは大嫌い、なのだった。それは芸術を愛する彼の心の対極にあったものだったのだろう。

ワーグナーが去った後は、中世風の豪華なお城、後に白鳥城と呼ばれ、シンデレラ城のモデルともなったノイシュバンシュタイン城の建設に熱中する。さらに、リンダーホーフ城、ヘレンキムゼー城と、自分の芸術世界を実現させるために巨費を投じ国家財政は傾いた。

自分にとって大事なものと苦手なものが、あまりに明確で、それに殉じているルートヴィヒ。もし彼が、国王などではないが自由にできる自分のお金は存分にある、という人物だったらどうだったのだろう・・・。しかし、立場が立場だけに、パラノイア(偏執狂)と診断を下され、国の統治は不可能だとミュンヘンのベルク城に幽閉されてしまう。そして1886年6月13日、精神科医と共にベルク城の湖畔で遺体が発見された。謎の死をとげたバイエルン最後の国王は伝説の王となった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月11日 (月)

6月11日ミランダ解放される予定の日「コレクター」(65年米)

蝶の収集が唯一の趣味であるフレディ(テレンス・スタンプ)はサッカーくじで大金を得たことにより、仕事を辞め、人里離れた一軒家を購入。美術学校生のミランダ(サマンサ・エッガー)をストーカーし誘拐し監禁する。彼にとって、ミランダは今まで採取した蝶のコレクションの中で一番の宝物なのだ。だから、リスペクトし大切に扱う。「自分という人間を知れば、当然、自分を愛してくれるはずだから、それまでの間、監禁する目的で誘拐した。終身刑でもそれなりの価値はある」と、とっても冷静で、表面は紳士的でさえあるフレディ。普通の感覚からすれば異常でも、彼の中では全てが理路整然としている。

「私があなたを愛するなんて死んでもあり得ない!」と当然、ミランダは解放してくれるよう懇願する。「食事をし、僕と会話して逃げようとしなければ」という条件付で、4週間後に解放すると約束させたミランダは壁にカレンダーを印して、その日6月11日に希望を託しもし、抵抗もする。

蝶のコレクションと人間の監禁が同じレベルのフレディは、社会からスポイルされてきたような部分があって、被害妄想も膨らんでいたようだ。社会に通用しない自分本位の理屈と欲望で行動する異常心理(性格)の人ではあるけれど、こういう心理状態は社会生活の中で発生し、それがまた、日常の中に潜伏しているのだと思うと、本当に怖くなるのでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月 6日 (水)

1939年6月6日セントルイス号アメリカ海域を追われる「さすらいの航海」(76年英)

この映画を観なかったら知りえなかったであろう、第二次世界大戦直前の忌まわしい史実がドキュメントタッチで語られている。

1939年5月13日、ドイツ客船セントルイス号が亡命を希望するユダヤ人937名を乗せ、ハンブルクからキューバのハバナに向けて出航した。故郷を去る寂しさはあるものの、迫害に耐えてきた彼らは自由を夢見て大西洋へと船出する。しかし、最初からこの航海はユダヤ人迫害への国際世論を配慮したナチスによって仕組まれたものだった。亡命希望者を援助しているというジェスチャアのみならず、混乱しているキューバの国情に乗じてキューバがこの亡命者を入国させぬように画策して、ナチスだけがユダヤ人を嫌っているわけではない、との宣伝に利用するためだった。

5月27日、ハバナ港沖にセントルイス号停泊。上陸許可を願うものの叶えられず、6月2日よりフロリダ海峡を迷走していたこの難民船はアメリカ沿岸警備隊からも米本土への接近・上陸を禁じられ、ついに6月6日、大西洋を引き返すこととなる。この計画に利用されたセントルイス号のシュレーダ船長(マックス・フォン・シドー)はドイツへの帰国を何とか回避しようと尽力する。自らの危険を顧みず、ナチスに抵抗したドイツ人は確かにいたのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月30日 (水)

1431年5月30日ジャンヌ・ダルク火刑「ジャンヌ・ダルク」(99年米・仏)

イギリス・フランス間の百年戦争(1338<サンザンヤッタガ>~1453<イヨ、ゴミノゴトシ>と年号だけは高校の世界史で習ったことを忘れないでいる)の終盤、戦争で荒廃していたフランスに出現しフランスの救世主とされるジャンヌ・ダルク。神のお告げを聞き、1429年、シャルル王太子に謁見し、英国軍と戦いオルレアンを解放する。王太子はランス大聖堂で戴冠式を挙行し正式にフランス国王シャルル7世となった。ジャンヌ・ダルク、この時17歳。しかし翌年には、この少女のカリスマ性がフランスにとっても脅威となり、策略によりイギリス側の捕虜にされ、宗教裁判にかけられる。

この映画の特異なところは、囚われの身となったジャンヌ(ミラ・ジョヴォヴィッチ)が牢の中で、神のお告げは奇跡などではなく、自分の内なる声、つまり、自分の欲望ではなかったのか?と苦悶するところ。その疑問はジャンヌの良心となって、声だけではなく正体(ダスティン・ホフマン)があり、辛らつな問答を繰り広げる。敬虔なキリスト教信者のジャンヌは自分が神を冒涜する行いをしたのではないかと畏れ、また、神自体への不信感も湧き上がり、心が引き裂かれる。裁判の審問もジャンヌの信仰心を乱すだけのもので、体の生死よりも救われたいのは魂、との気持になってゆく。

1431年5月30日、19歳のジャンヌ・ダルクは異端者としてルーアンで火刑に処せられ、聖女とも魔女とも呼ばれたが、1920年、ヴァチカンは正式に「聖女」の列に加えた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月23日 (水)

1934年5月23日ボニーとクライド射殺「俺たちに明日はない」(67年米)

大恐慌下のアメリカに実在したクライド・バロウとボニー・パーカーのカップルを中心とする「バロウ・ギャング」と呼ばれた強盗団の犯罪ぶりと、その末路です。この若きアウトローの物語に青春物語としての輝きがあるのは、彼らの犯罪が庶民が疲弊していた大不況時代のはけ口の役割にもなっていたからです。そして何より、ボニーとクライドにとっては青春そのものだったのです。

刑務所帰りのクライド(ウォーレン・ベイティ)はボニー(フェイ・ダナウェイ)に出会い、いいところを見せようと押し入った銀行は不況のため倒産していた。軽い気持で始まった強盗は次第にエスカレートしていき、仲間を増やしてアメリカ中南部を股にかけ暴れまわり、その名を轟かせることに。彼らにとっての強盗(それによる殺人さえも)は自分たちの生を生きていることの証のようなものだったのでしょうか? 刹那的人生を選んだボニーとクライド。1934年5月23日、ルイジアナ州アーカディアで最期を迎えることとなるのです。二人が全身に銃弾を浴びるスローモーションー映像は“死のバレエ”と称されています。

この映画が製作・公開された時代はベトナム戦争への反戦運動、人種問題や麻薬の蔓延、若者のピッピー現象など、問題山積でハッピーエンドが空々しく、単純明快は嘘っぽく感じられるようになったのでしょう。「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれる新しいスタイルの映画が次々と登場することとなるのですが、この映画はその先駆けとなったエポック・メーキング的な意味もある作品です。また、ボニーとクライドの事件は州を越えての犯罪捜査の必要性が証明され、FBI設立(1935年)の強力な後押しとなったそうです。

ボニー=フェイ・ダナウェイには熱い思い入れがあるのですが、とてもここでは語り尽くせない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月21日 (月)

1927年5月21日大西洋横断飛行初成功「翼よ!あれが巴里の灯だ」(57年米)

チャールズ・A・リンドバーグ(1902~74)が’53年に出版しピューリッア賞を受賞した回顧録『ザ・スピリット・オブ・セントルイス』をビリー・ワイルダーの脚本・監督で映画化。

リンドバーグ(ジェームズ・スチュアート)は<大西洋横断無着陸飛行>挑戦の前夜、眠りにつくことができず、決行までに至る経過を回想する。当時、この命がけの大冒険である大西洋横断飛行に2万5千ドルの賞金が賭けられていて、アメリカやヨーロッパの飛行士たちが先を争って挑戦しようとしていた。セントルイスの郵便機パイロットのリンドバーグは実業家たちを説得して出資金を集め、航空機会社と交渉して横断用の飛行機スピリット・オブ・セントルイス号を製作してもらったのだった。総重量を抑え燃料を最大限に積み込むため、無線機や六分儀などは装備せず、パラシュートも持たない、という徹底ぶり。

1927年5月20日、ニューヨークのルーズベルト飛行場を飛び立つ。手動での計器の調整や地図と方位磁石での進路の確認など、リンドバーグが操縦するセントルイス号自体にも魂が宿っているかのようだ。睡魔との闘いや、機体の凍結などの危機も脱して33時間半、5810キロに及ぶ大西洋横断単独飛行を遂行、5月21日、パリのブルージェ飛行場に着陸。リンドバーグは一躍、時の人となった。

フロンティア・スピットとかアメリカン・ドリームとか、元気いっぱい夢いっぱいで困難に挑戦し、前進するするアメリカがここにある。周りには必ず温かく力強い協力者がいて、50年代までは「人生って素晴らしい」的な映画が主流だったんですねえ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月19日 (土)

1935年5月19日T.E.ロレンス逝く「アラビアのロレンス」(62年英/89年完全版)

トマス・エドーワード・ロレンスが1935年5月13日のオートバイ事故により5月19日、47歳の生涯を閉じた。「偉大な人物」「自己宣伝家」と葬儀参列者の評価は様々だ。考古学者であり、外国語や文学など幅広い教養を身につけた後、軍人になったロレンスは最初から異端児的存在だったようだ。

第一次世界大戦の最中、ロレンス中尉(ピーター・オトゥール)はアラブの動向を探る英国陸軍の情報部員としてヨルダン南部の砂漠地帯に赴く。そして彼は一軍人としての枠を超え、ドイツが支援するトルコ軍の侵略に抵抗するアラブ反乱軍の指揮を執るようになる。当初から<アラブ独立>の思いを持っていたロレンスはその熱意と実行力でアラブ民族の信頼を得て、アラブの民族衣装に身を包み、神がかり的な快進撃を続けた。アメリカ人ジャーナリストの取材記事にもより<砂漠の英雄>に祭り上げられ、本人もその気になってゆく。しかしそれは、トルコに代わりアラブの地の利権を狙うイギリス(フランスとトルコ・アラビアを分譲する条約を交わしている)にとっては不都合なことだった。イギリスの思惑はアラブ側からロレンスに対しても不審をかうことになる。

負傷した味方を敵方の捕虜にさせないため殺さなければならないアラブの掟に従った殺人。トルコ軍に捕らえら拷問された苦い体験と、その反動でトルコ軍に残虐な仕返しをしたロレンス。自分はイギリス軍人でもなくアラブ人にもなれない、というアイディンティティの喪失感。部族ごとの結束が固く団結しないアラブの民。数々の問題をはらみ、彼はついに自己矛盾を抱えきれなくなるのだった。

闘争の歴史の歯車に飲み込まれていったロレンス。ジャーナリストに「砂漠の魅力は?」と問われ「清潔(クリーン)なこと」と答えたロレンス。人間の心もそうであれ、と願ったに違いない。この映画は砂漠の美しさと恐ろしさをも見事に写し出している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

映画・テレビ