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2007年5月30日 (水)

1431年5月30日ジャンヌ・ダルク火刑「ジャンヌ・ダルク」(99年米・仏)

イギリス・フランス間の百年戦争(1338<サンザンヤッタガ>~1453<イヨ、ゴミノゴトシ>と年号だけは高校の世界史で習ったことを忘れないでいる)の終盤、戦争で荒廃していたフランスに出現しフランスの救世主とされるジャンヌ・ダルク。神のお告げを聞き、1429年、シャルル王太子に謁見し、英国軍と戦いオルレアンを解放する。王太子はランス大聖堂で戴冠式を挙行し正式にフランス国王シャルル7世となった。ジャンヌ・ダルク、この時17歳。しかし翌年には、この少女のカリスマ性がフランスにとっても脅威となり、策略によりイギリス側の捕虜にされ、宗教裁判にかけられる。

この映画の特異なところは、囚われの身となったジャンヌ(ミラ・ジョヴォヴィッチ)が牢の中で、神のお告げは奇跡などではなく、自分の内なる声、つまり、自分の欲望ではなかったのか?と苦悶するところ。その疑問はジャンヌの良心となって、声だけではなく正体(ダスティン・ホフマン)があり、辛らつな問答を繰り広げる。敬虔なキリスト教信者のジャンヌは自分が神を冒涜する行いをしたのではないかと畏れ、また、神自体への不信感も湧き上がり、心が引き裂かれる。裁判の審問もジャンヌの信仰心を乱すだけのもので、体の生死よりも救われたいのは魂、との気持になってゆく。

1431年5月30日、19歳のジャンヌ・ダルクは異端者としてルーアンで火刑に処せられ、聖女とも魔女とも呼ばれたが、1920年、ヴァチカンは正式に「聖女」の列に加えた。

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2007年5月23日 (水)

1934年5月23日ボニーとクライド射殺「俺たちに明日はない」(67年米)

大恐慌下のアメリカに実在したクライド・バロウとボニー・パーカーのカップルを中心とする「バロウ・ギャング」と呼ばれた強盗団の犯罪ぶりと、その末路です。この若きアウトローの物語に青春物語としての輝きがあるのは、彼らの犯罪が庶民が疲弊していた大不況時代のはけ口の役割にもなっていたからです。そして何より、ボニーとクライドにとっては青春そのものだったのです。

刑務所帰りのクライド(ウォーレン・ベイティ)はボニー(フェイ・ダナウェイ)に出会い、いいところを見せようと押し入った銀行は不況のため倒産していた。軽い気持で始まった強盗は次第にエスカレートしていき、仲間を増やしてアメリカ中南部を股にかけ暴れまわり、その名を轟かせることに。彼らにとっての強盗(それによる殺人さえも)は自分たちの生を生きていることの証のようなものだったのでしょうか? 刹那的人生を選んだボニーとクライド。1934年5月23日、ルイジアナ州アーカディアで最期を迎えることとなるのです。二人が全身に銃弾を浴びるスローモーションー映像は“死のバレエ”と称されています。

この映画が製作・公開された時代はベトナム戦争への反戦運動、人種問題や麻薬の蔓延、若者のピッピー現象など、問題山積でハッピーエンドが空々しく、単純明快は嘘っぽく感じられるようになったのでしょう。「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれる新しいスタイルの映画が次々と登場することとなるのですが、この映画はその先駆けとなったエポック・メーキング的な意味もある作品です。また、ボニーとクライドの事件は州を越えての犯罪捜査の必要性が証明され、FBI設立(1935年)の強力な後押しとなったそうです。

ボニー=フェイ・ダナウェイには熱い思い入れがあるのですが、とてもここでは語り尽くせない。

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2007年5月21日 (月)

1927年5月21日大西洋横断飛行初成功「翼よ!あれが巴里の灯だ」(57年米)

チャールズ・A・リンドバーグ(1902~74)が’53年に出版しピューリッア賞を受賞した回顧録『ザ・スピリット・オブ・セントルイス』をビリー・ワイルダーの脚本・監督で映画化。

リンドバーグ(ジェームズ・スチュアート)は<大西洋横断無着陸飛行>挑戦の前夜、眠りにつくことができず、決行までに至る経過を回想する。当時、この命がけの大冒険である大西洋横断飛行に2万5千ドルの賞金が賭けられていて、アメリカやヨーロッパの飛行士たちが先を争って挑戦しようとしていた。セントルイスの郵便機パイロットのリンドバーグは実業家たちを説得して出資金を集め、航空機会社と交渉して横断用の飛行機スピリット・オブ・セントルイス号を製作してもらったのだった。総重量を抑え燃料を最大限に積み込むため、無線機や六分儀などは装備せず、パラシュートも持たない、という徹底ぶり。

1927年5月20日、ニューヨークのルーズベルト飛行場を飛び立つ。手動での計器の調整や地図と方位磁石での進路の確認など、リンドバーグが操縦するセントルイス号自体にも魂が宿っているかのようだ。睡魔との闘いや、機体の凍結などの危機も脱して33時間半、5810キロに及ぶ大西洋横断単独飛行を遂行、5月21日、パリのブルージェ飛行場に着陸。リンドバーグは一躍、時の人となった。

フロンティア・スピットとかアメリカン・ドリームとか、元気いっぱい夢いっぱいで困難に挑戦し、前進するするアメリカがここにある。周りには必ず温かく力強い協力者がいて、50年代までは「人生って素晴らしい」的な映画が主流だったんですねえ。

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2007年5月19日 (土)

1935年5月19日T.E.ロレンス逝く「アラビアのロレンス」(62年英/89年完全版)

トマス・エドーワード・ロレンスが1935年5月13日のオートバイ事故により5月19日、47歳の生涯を閉じた。「偉大な人物」「自己宣伝家」と葬儀参列者の評価は様々だ。考古学者であり、外国語や文学など幅広い教養を身につけた後、軍人になったロレンスは最初から異端児的存在だったようだ。

第一次世界大戦の最中、ロレンス中尉(ピーター・オトゥール)はアラブの動向を探る英国陸軍の情報部員としてヨルダン南部の砂漠地帯に赴く。そして彼は一軍人としての枠を超え、ドイツが支援するトルコ軍の侵略に抵抗するアラブ反乱軍の指揮を執るようになる。当初から<アラブ独立>の思いを持っていたロレンスはその熱意と実行力でアラブ民族の信頼を得て、アラブの民族衣装に身を包み、神がかり的な快進撃を続けた。アメリカ人ジャーナリストの取材記事にもより<砂漠の英雄>に祭り上げられ、本人もその気になってゆく。しかしそれは、トルコに代わりアラブの地の利権を狙うイギリス(フランスとトルコ・アラビアを分譲する条約を交わしている)にとっては不都合なことだった。イギリスの思惑はアラブ側からロレンスに対しても不審をかうことになる。

負傷した味方を敵方の捕虜にさせないため殺さなければならないアラブの掟に従った殺人。トルコ軍に捕らえら拷問された苦い体験と、その反動でトルコ軍に残虐な仕返しをしたロレンス。自分はイギリス軍人でもなくアラブ人にもなれない、というアイディンティティの喪失感。部族ごとの結束が固く団結しないアラブの民。数々の問題をはらみ、彼はついに自己矛盾を抱えきれなくなるのだった。

闘争の歴史の歯車に飲み込まれていったロレンス。ジャーナリストに「砂漠の魅力は?」と問われ「清潔(クリーン)なこと」と答えたロレンス。人間の心もそうであれ、と願ったに違いない。この映画は砂漠の美しさと恐ろしさをも見事に写し出している。

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2007年5月18日 (金)

1911年5月18日マーラー逝く「ベニスに死す」(71年伊)

東雲たなびく朝まだき、一隻の蒸気船が穏やかな海を航行している。グスタフ・マーラーの『交響曲第5番・第4楽章アダージェット』の旋律が映像からあふれ出す、夢の中にいるようなオープニング。小説家が主人公だがマーラーがモデルとされるドイツの文豪トーマス・マンの小説『ベニスに死す』を、頽廃美を描ききる巨匠ヴィスコンティ監督が主人公を音楽家グスタフ・アッシェンバッハにして映画化。マーラーの曲がアッシェンバッハの心情の伴奏のごとくに流れている。

医師から静養を勧められ、アッシェンバッハ(ダーク・ボガード)はベニスのリド島を訪れます。その滞在先のホテルで<完璧なる美>に遭遇してしまい、心かき乱れ、静養どころではなくなってしまいます。ポーランドの美少年タージオ(ビョルン・アンドレセン)にこの芸術家の美の探究心を鷲づかみにされてしまったのでした。ただ、その少年を見ただけで。感情移入できなくても、アッシェンバッハ先生の歓喜と苦悩の胸の鼓動、焦燥感や絶望感まで伝わってきます。美しい女性に恋をした、というレベルとは完全に異次元の神話的世界です。折からベニスにはコレラの脅威が・・・。

タージオ少年は確かに美しいけれど、私はマーラー作曲のハープと管弦が奏でるアダージェットとダーク・ボガードの演技に魅せられました。

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2007年5月16日 (水)

1929年5月16日第一回アカデミー賞授賞式「アカデミー賞グレイテスト・モメント」(ビデオ・92年米)

アメリカ映画芸術科学アカデミー主催の映画の祭典、アカデミー賞授賞式。そのスタートは1929年5月16日、ハリウッドのルーズベルト・ホテルの大広間で5分ほどの授賞式を行い、晩餐会で受賞者を祝ったそうだ。2007年で79回目を迎え、今では90カ国30の言語でテレビ放送され、10億人がオスカーの行方を見守っているといわれる。

1971年(第43回)~1991年(第63回)の授賞式のハイライト・シーンが収録されている『アカデミー賞グレイテストモメント』のビデオを久々に観て、改めてその歴史と伝統を感じた。受賞者は感激と謝辞で充分だが、司会者やプレゼンターは笑いを取ることを使命としているかのようだ。伝統芸というより、皮肉をブレンドしたユーモアは体質芸だと思う。後になって聞くと受賞者の感謝だらけのスピーチより価値がある、っていうか面白い。そんな中にも、アカデミー賞批判や拒否、政治的な発言などもあり、それらに対し「この場には相応しくない」と意見する者あり、シリアスな部分も共存している。これこそ本場アカデミー賞の厚みと重みかも?

アメリカを追放されていたチャールズ・チャップリンが’72年の授賞式で「特別賞」を授与され感極まっている様子は胸にこたえる。この賞は長年、映画業界に貢献してきた人に対する敬意という形だが、「あなたにオスカーを渡し損ねてしまいました。遅ればせながらお受けください」と、アカデミー協会が謝罪の代わりに贈る意味合も大きいと思う。ヒッチコック監督やケーリー・グラントなどなど。最近ではピーター・オトゥールも。

プレゼンターがオスカー受賞者を発表するときの「The WINNER is ~(勝者は~)」が第61回の授賞式から「The OSCAR goes to ~(オスカーは~にいく)」に変更された。言葉って大事。オスカーの名はますます広まることに。

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2007年5月12日 (土)

1943年5月12日クワイ河にかかる橋が完成「戦場にかける橋」(57年英)

太平洋戦争中、ビルマ(現ミャンマー)国境に近いタイの密林にある日本軍の捕虜収容所の所長、斎藤大佐(早川雪洲)は司令部からタイ・ビルマ間の鉄道(泰緬鉄道)完成のためクワイ河渓谷に架橋建設の命を受けていた。そこにニコルスン大佐(アレック・ギネス)を隊長とする大勢のイギリス軍捕虜が送られてくる。斎藤大佐はイギリス軍全員に架橋建設の労働を命じるが、ニコルスン大佐は「士官の捕虜に肉体労働をさせるのはジュネーブ協定違反」として、懲罰小屋に入れられても断固これを拒否。イギリス軍捕虜の士気は乱れ、建設を指揮する日本人技術者の能力不足もあって橋の建設は一向に進まない。ニコルスンの協力を得たい斎藤は、日本軍の日露戦争戦勝記念日(3月10日)の大赦を口実に英軍士官たちを釈放する。

武士道精神の日本男児VS騎士道精神の英国紳士、的な頑固なプライドと意地の張り合いが見事に描き出されているのには驚きです。そして、この二人には同じ軍人として通じ合うものが芽生えてゆくのです。この心理描写は戦争映画を超越しています。

ニコルスン大佐は日本軍のためにではなく、イギリス軍の士気高揚と後世に残る名誉のために立派な橋を建設しようと、自らの尊厳をかけ奮い立つ。そして、予定期日の1943年5月12日、架橋工事は終了。完成した橋を満足気に見回るニコルソン大佐。そこへ斎藤大佐がやって来て、素直に敵方の功績を褒められず、夕焼け空を眺めて「ビューティフル」とつぶやくところは、泣けちゃいます。

一方、連合軍側ではこの橋の爆破準備が進められている・・・。

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2007年5月11日 (金)

1904年5月11日ダリ誕生「ダリ 天才日記」(90年スペイン)

1940年、戦禍のヨーロッパよりニューヨークに到着した亡命船から、大きなフランスパンを頭に載せた奇抜なスタイルのサルバドール・ダリ(ロレンツォ・クイン)と妻ガラ(サラ・ダグラス)が降り立った。彼はインタビューに「私は世紀の天才だ。私は超現実主義の旗手ではない、私がシュールレアリズムだ」と答える。そんなダリに興味を抱くタイムズ誌の記者トム(マイケル・キャトリン)が「天才の裏側を知りたい」と彼を独占取材する。今までの人生のエピソードを語るダリ。

ダリ誕生(1904年5月11日)の前年、兄が夭折したために兄と同じ名前をつけられ、身代わりでもあったという。母に溺愛され、父には邪険にされた。このあたりから既に、ダリの精神は超現実世界をさ迷い始めていたらしい。10歳で斬新な絵の技法を考案して、先生に教わることは何もなかった。詩人である友人ポール・エリュアールの妻ガラに一目惚れし10歳年上の彼女を妻に。映画監督ルイス・ブニュエルと『アンダルシアの犬』を制作し大成功したこと、などなど、天才自身の語る天才の人生にブレはないかのようだ。苦を苦と思わないのも天才の条件の一つなのだろうか、感じないふりをしているだけなのだろうか。

紛争が続く祖国スペインからは逃避したが「全ての紛争に対して私のとった行動は戦争の邪悪で陰惨な顔を容赦なく描くことだった」と語るダリ。<チーズのように溶けかかった時計>や<ゆがんだ仮面>や<動物の異常に細い脚>などは戦争の悲惨さを象徴しているらしい。やはり、天才は一筋縄ではいかない。

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2007年5月 7日 (月)

1615年5月7日真田幸村戦死「真田風雲録」(63年東映)

この映画は「戦国武将たちの勢力争いの時代に育った少年たちの物語」であると同時に、「関ケ原の合戦を太平洋戦争に、真田十勇士を戦争孤児に、大坂冬・夏の陣を1960年の安保反対闘争になぞらえた風刺コメディで、時代劇にしてミュージカル仕立て」という立体構造になっています。真田幸村(千秋実)は大坂の陣で豊臣方に就いて戦うため、主人公たる孤児たちをスカウトする狂言回し的な役割なのですが、えらく俗っぽかったり、達観していて能天気なほどだったりしています。これは天からの視点(神の目線)なのでしょうか?

十勇士の佐助(中村金之助)は乳児期に隕石の放射能を浴びたことにより、姿を消せる能力と人の心が読める能力を持ってしまったがために、自らに孤独を課して生きています。そのため、お霧(渡辺美佐子)の想いを受け入れられません。相手の気持の些細な変化も読み取れてしまうからだと言います。特殊能力って、ほんと切ない。さらに、何のために自分が戦っているのかを考えている悩める若者ですが、そんな佐助の心中は権力者たちの闘争とは何ら関係ありません。

豊臣家の淀殿と息子の秀頼、その妻で家康の孫でもある千姫の3人の関係のパロディ化は大傑作です。また大坂城執権役の大野修理亮(佐藤慶)は複雑な気持を抱えているようなのですが、よく理解できずに気になります。シュールな手法で人間の精神面をリアルにシビアに描いたような驚異的な映画なのです。

1615(元和元)年5月7日、大坂夏の陣において真田左衛門佐幸村は(この映画の中ではかっこ悪く)豊臣家の終焉と共に戦死してしまいますが、であるからこそ『真田十勇士』の物語ができるほど人々に愛され、語り継がれています。

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2007年5月 1日 (火)

1931年5月1日エンパイア・ステート・ビル完成「キング・コング」(33年米)

1931年5月1日、ニューヨーク・マンハッタンに高さ381メートル、102階建てのエンパイア・ステート・ビルが完成。当時、世界一の高さを誇り、摩天楼の象徴となった、天を突くようなペンシル型のビルディング。

このビルの完成を記念し、天辺でモンスターを暴れさせよう、という発想で、この映画は制作されたのではないか、と私は踏んでいる。とは言え、巨猿が人間の女性に恋をする、というアイデアがこの映画の麗しいところ。このキング・コングの恋を<純愛>と呼ばずに、何をそう呼ぶ、と思ったのでありました。

記録映画撮影のため南海の孤島にやって来た映画制作者デナム(ロバート・アームストロング)の一行に翻弄されてしまうキング・コング。現地の人々からは神のごとくに崇められていたのに、文明人の傲慢さには勝てない。見世物にして儲けようとニューヨークまで連れて来られ、そのお披露目の場でのカメラのフラッシュが大切なアン(フェイ・レイ)を攻撃していると思ったコングは彼女を守るために、自分が縛られている鎖を切った。しかし、それは怪物の大暴れにしかならないのだった。アンを探し求め、ニューヨークの街を破壊してゆくコング。ただアンを守りたくて、この高い所なら大丈夫だ!と思ってエンパイア・ステート・ビルに避難させたのだ。それは所詮、叶うべくもない想いだった。

この時代の特撮は哀愁があって好きです。キング・コングはじめ南海の孤島に生存している恐竜や怪鳥たちの、ぎこちない動きが愛らしい。

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